看護部の紹介

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看護部の沿革

慶応3年
(1867年)
黒田藩の藩校として西洋医学の医育機関「賛生館」を開校
明治28年
(1895年)
県立福岡病院に看護婦養成所を設置「県立福岡病院看護婦規則」制定
明治36年
(1903年)
京都帝国大学福岡医科大学附属医院看護婦養成科となる
明治37年
(1904年)
「看護員服務心得」「看護婦取締服務心得」制定 看護寄宿舎落成
明治38年
(1905年)
各科に看護長1名配置
明治42年
(1909年)
看護婦養成科を看護員養成科と改称
明治44年
(1911年)
九州帝国大学医科大学附属医院看護員養成科となる
明治45年
(1912年)
各科に副看護長配置
大正2年
(1913年)
産婆養成科設置
大正8年
(1919年)
九州帝国大学医学部附属医院看護員養成科と改称
昭和9年
(1934年)
看護研究発表会「若葉集談会」発会
昭和20年
(1945年)
看護員養成科を厚生女学部と改称
昭和21年
(1946年)
連合軍総司令部(GHQ)指導下で看護改革が始まる
昭和24年
(1949年)
初代総看護長就任 第1回看護長会議開催
昭和25年
(1950年)
看護婦三交代制勤務導入 看護長による交代での当直制を開始
GHQ九州地方軍政部公衆衛生課看護係長ジョセフィン・バーカー5つの提言をする
昭和26年
(1951年)
看護婦の全寮制廃止
昭和30年
(1955年)
既婚の看護婦誕生
看護婦三交代勤務の完全実施
昭和36年
(1961年)
副総看護長制開始(病棟兼務)
昭和37年
(1962年)
看護部設置 総看護長から総看護婦長となる
昭和40年
(1965年)
看護婦長寄宿舎完成
昭和41年
(1966年)
夜間勤務看護婦長専任制 副総看護婦長専任制
昭和43年
(1968年)
副総看護婦長2人体制となる
昭和49年
(1974年)
各科看護婦長輪番制による夜勤婦長業務開始 副総看護長3人体制
昭和51年
(1976年)
文部省令により看護部制 総看護婦長が看護部長に就任
平成7年
(1995年)
新看護2.5対1看護体制
平成13年
(2001年)
感染対策看護婦長、リスクマネージャー看護婦長を専任として配置
平成14年
(2002年)
看護部理念の作成
平成15年
(2003年)
三病院(医学部附属病院、歯学部附属病院、生体防御医学研究所附属病院)統合
九州大学病院(呼称)となる
副看護部長は歯科、別府地区含めた5人体制となる
手術部において二交代制勤務を開始
平成18年
(2006年)
歯科等副看護部長は質担当副看護部長となる 看護部概況書第1号を発行
平成19年
(2007年)
一般病棟入院基本料7対1看護を取得
病棟において二交代制勤務を順次開始する
病院機能評価ver.5受審認定を受ける
平成20年
(2008年)
電子カルテ導入 助産師外来の開設
平成21年
(2009年)
外来診療棟が開院し、新病院建築は完了
糖尿病フットケア外来 ストーマ看護外来の開設
看護部理念の見直しと基本方針の作成
平成22年
(2010年)
看護師長二交代制勤務を開始 リンパ浮腫外来開設
平成23年
(2011年)
パートナーシップ・ナーシングシステム(PNS)導入
平成24年
(2012年)
病院機能評価ver.6受審認定を受ける
造血細胞移植後患者フォローアップ外来を開設
平成25年
(2013年)
病院情報システムの更新
病院機能評価Ver.6認定
小児救命救急センターを設置       糖尿病透析予防外来を開設
平成26年
(2014年)
「看護実践力ブロッサム開花継続プロジェクト」として継続
看護提供方式 パートナーシップ・ナーシングシステム(PNS)全部署導入
平成27年
(2015年)
がん看護外来を開設
14時間夜勤を全部署へ拡大 (平成27年12月 全部署が14時間夜勤となる)
平成28年
(2016年)
看護部長が副病院長(看護部総括担当)へ就任
看護キャリアセンターが中央診療施設等の院内措置施設として新設
手術部看護師長が手術部副部長へ
平成29年
(2017年)
感染管理担当看護師長がグローバル感染症センター副センター長へ
平成30年
(2018年)
医療安全担当看護師長(GRM)が医療安全管理部副部長へ
保健学部門への人事交流者に対し、保健学協力教授等の称号付与が医学部保健学部門会議で制定される
令和元年
(2019年)
病院機能評価 一般病院3・精神科病院(副)認定
令和2年
(2020年)
新型コロナウイルス感染症の対応のため、イノベーションセンター別館・旧東病棟2階を開設。

正門(昭和3年頃)

看護師宿舎(昭和10年頃)

正門から見た九大病院(現在)

行き遇いの禮

看護の創世期、行き遇いの禮に代表されるように、看護師としての礼節は特に重視されていた。付属医院の長い廊下は走ることはもちろんおしゃべり等も禁止である。
看護婦は全員が寄宿舎生活で、勤務中も勤務外の生活においても規則を遵守して生活することを求められた。当時の看護婦に求められた看護婦としての品格や態度(公平さや誠実さ、秩序と清潔、礼節等)は、現代においても通用する。

明治時代の看護日誌

県立福岡病院時代は和紙に毛筆である。食・精神・身体・排便・排尿・痛み・掻痒等の観察事項を毎日記載していた。
明治36年、福岡医科大学になって洋紙にペンで記録を始め、カルテなど全てが縦書きから横書きとなった。看護婦は、患者全員の体温を測定し体温表に記入した。脈拍、呼吸の記録はない。

明治後期の耳鼻科診察の様子

看護婦は医員の指導のもと診療介助を中心に看護業務を行った。一度診療科に配属されると転科することはなかった。
附属医院では看護業務心得を明文化し、各職制の責任分担を明確にし、診療が適確且つ敏速に進むようにした。看護婦はこれを忠実に守り協力した。

看護婦養成所 第12回生卒業記念

当直婦長による病院長と総看護長への業務報告

昭和25年7月3日の看護長会議から検討を始め、同年9月に当直婦長制の実施を決め、看護長2 名が交代で各科を巡回し夜間の任に当たることにした。
当直婦長は、午後5時に総婦長室で各科から提出された患者総数・術後患者や重症患者を確認し、午後10時から各科病棟を巡回して看護婦の指導監督を行い、夜間の管理状況を日誌に記載した。午前8時に病院長と総看護長に報告した。

整形外科病棟看護婦詰め所(昭和47年頃)

昭和40年看護部は、患者中心の看護を目指してチームナーシングを導入した。カーデックスを採用し、患者一人ひとりの看護計画を立案、計画に基づいた看護を実践するようになった。
板張りで木の机を並べた看護婦詰所は、オープンスペースではなく一つの部屋であった。